心が揺れる季節

 

久子さんを訪ねるときは、郊外の静かな場所をゆっくり歩くようにしている。

 

落ち葉を踏む音や鳥のさえずりを、はっきりと聞きとれて、自然の音の優しさを感じることができるからだ。

 

日ごろ耳にしている、流れる車の音、そして工事の音やパトカーのサイレンなど都会の喧騒は、意識しているわけではないが、雑音であって無いほうがありがたい。

 

すんだ空気の中で一つひとつの存在感を感じることができる、この季節の音色は心を落ち着かせてくれる。

 

一方で、晩秋の冷え込みを感じるこの季節は、子供の頃は感じることがなかった、切なさや寂しさに襲われるときがある。

 

毎年、年賀状を送っている間柄の人たちからの、訃報の知らせが届く時期だからかもしれない。

 

『ぼくの久子さん』を書き始めた頃の、憎らしいくらい元気な姿と違って、全く別人と言っていいくらい体が弱っている久子さんを見ていると、胸がつまる思いに襲われる。

 

いつまで長生きしてしまうのだろうと、考えてしまっていた頃がなつかしい。

去年の12月、久子さんは体調を崩して、1度だけ救急搬送されている。

 

今年はインフルエンザが流行しているから、この季節の変わり目は注意しないといけない。

 

もちろん、久子さんはすでにインフルエンザ予防接種は受けているが、去年のことを考えると、ただの風邪に罹ることも用心しなければならない。

 

今すぐにどうということはないだろうが、今後この季節は同様の思いに襲われるのだろう。

 

変わりゆく言動

 

「どこか痛いところはないですか?腰とか肩とか?」

 

「どこも痛くない」

 

「頭とか、喉とか、おなかとか痛くないですか?」

 

「大丈夫、なんともない」

 

「夜はよく眠れていますか」

 

「ぐっすり眠れる」

 

「何かつらいことや寂しいと思うことはないですか」

 

「つらいことなんかない」

 

これが最近のぼくと久子さんの会話だ。

 

体はどこも悪い所がない、そしてつらいこともない、よく眠れている。

 

ことば通りならば何の心配もない状態だと思うが、久子さんの答え方が、嫌々ながら答えているようなトーンなので、ぼくとしては全面的に信じるわけにはいかないのだ。

 

ぼくの経験から、認知機能が衰えていないお元気な高齢者ほど、満足のいかないサービスには、はっきりとクレームを言う傾向にあると思う。

 

このご飯は柔らかすぎるとか、あのヘルパーは挨拶がないとか、デイサービスはつまらないとか、様々な要望や不満を伝えてくれる。

 

一方、認知機能の衰えが進んでしまった方々は、ときどき妄想や暴言はあっても、比較的おとなしく過ごしている人が多いように思う。

 

久子さんも、ときどき妄想により理解に苦しむ言動はあるが、最近は穏やかに過ごしてくれている。

 

若い頃は、たくさんの人に囲まれて、忙しく過ごしてきた、世話好きの久子さんが、現在の環境をどのように感じているのか、ぼくにはさっぱり想像がつかないのだ。

 

自分の事より、他人の世話を焼くことの方が好きだった久子さんが、今はひとりでじっと暮らしている。

 

多くの高齢者の生活を見る機会に恵まれてきたぼくが感じていることは、人の一生のうち、周りの人が一番よくしてあげないといけないのは、終末期だということ。

 

このように経験から学んできたのに、誰よりも介護のことを知っていても、さらに時間がないわけでもないのに、いまのぼくにはよいアイデアが何もないのだ。

 

因果はめぐる糸車!

 

因果応報!

 

ぼくの終末期の姿を想像しながら、久子さんに許しを請うことにしよう。