ついにやってきた久子さん引っ越しの日

 

7月8日、その日の空は、まぶしいほどのあおぞらだった。

 

引っ越し荷物の整理を午前中に終わらせた。

 

あらためて、大家族を支えてきた久子さんの荷物が少ないことに、胸が締め付けられるような感覚に襲われ、これまで久子さんの生活環境を変えてきた自分がやってきたことが、本当に正しかったと言えるのか?自問自答を繰り返したが、納得がいく答えは見つからない。

 

あおぞらへの想い

 

久子さんの見送りをしたいと、あおぞらのスタッフ10人ほどが、忙しい業務の合間をうまくあわせて、玄関に集まってくれた。

 

あおぞらから外に出て車に乗るという行動に対して、久子さんはなんら拒否反応を見せなかったので、ぼくだけでなく、集まってくれた人からも安堵感が感じられた。

 

そしてどのスタッフからも同じような言葉がかけられた。

 

「久子さん、行ってらっしゃい、気を付けてね」

 

この言葉に、ぼくの胸は熱くなった。

 

なんて美しい表現だろう、久子さんに寄り添った支援をしてくださった方々の思いが、あらためて伝わってきた瞬間だった。

 

皆さんに何度もお礼のことばを伝えたが、集まってくれたスタッフ、そしてその日その場にいなかったスタッフや医療介護従事者のお世話になった方々に対して、感謝の気持ちを伝えるにふさわしい言葉は見つからなかった。

 

涙をぐっと抑えることができない、そんなぼくの表情、これが精いっぱいだった。

 

同時に、あおぞらへの思いがぼくの心を強く揺さぶった。

認知症を患っている高齢者でも、自分らしく豊かに暮らすことができる、そんな住まいに、あおぞらはなるはずではなかったのか。

 

認知症高齢者を安心してあずけられる施設とは、いったいどのような所なのか。

 

ところで久子さんは、この場の情景をどの程度わかっているのだろうか。

 

この場面の主人公である久子さんはというと、その表情から心の中がまったく読み取ることができなかった。

 

久子さんの新生活

 

新しい久子さんの次の住まいまでは、車で10分もかからなかった。

 

久子さんの特養(特別養護老人ホーム)での生活が始まった。

 

オープンして半年も経っていない新しい施設、廊下が広くて、3階にある久子さんのお部屋の大きな窓からの見晴らしもいい。

 

これまで住んでいたあおぞらと比べると、とても明るく住みやすいように感じた。

 

久子さんの持ち物、着るもの、履くもの、すべての持ち物にマジックで名前を書いた。

 

58年前、ぼくが小学校に入るとき、久子さんが、鉛筆、ノート、クレヨンなど細かい文具から着るもの、履き物など、小学校に持っていく持ち物すべてに、名前を書いてくれた時のことが思い出された。

 

鉛筆や、数を数えることを覚えるために使用した教材は、小さな形をしたものが何十個、何十本とあったが、それらすべてに、久子さんの手でひらがなの名前が書かれた。

 

その字は、パソコンで作られたものと違って、とても愛情がこもった、一つひとつが丁寧な文字だった。

 

それに比べてぼくの文字は、とりあえず書いている、読み取れたらいいくらいのものでしかなかった。

 

そんなことしかできない自分に腹立たしく、久子さんが小学1年生のぼくに示してくれた愛情と比べると、その姿はなんと情けない長男なんだろうと思った。

 

フロアのスタッフの人たち、そして看護師さんの指示に従い、滞りなく引っ越しが終了した。

 

すでに住んでいる人たちをみると、特養という施設は制度上の決まりで、入居できる人は要介護3以上と限定されるためか、皆さん机に静かに座ってうつろな目をしていた。

 

あおぞらの平均介護度は1.9程度だから、大きな開きがあり、雰囲気も大きく違った。

 

いよいよ要介護5の久子さんの新しい生活が始まった。

これまでの人生の半分を石川県の田舎で暮らし、残りの約半分を大都会川崎市の住宅街で暮らしてきた久子さんの、狭山市の特別養護老人ホームでの暮らしは、終の棲家となるのだろうか。

 

このノンフィクション物語はどのように続くのだろうか。