ぼくの久子さんを発信するようになってから、久子さんの永い人生を振り返るという、これまでに経験のない行為を繰り返していることに、充実感を味わっている。

 

それは人間としてとても崇高な心を学んでいるように思うからだ。

 

父は7人兄弟の長男だったから、久子さんは25歳で結婚をした後、幼い父の兄弟を含めて大家族の面倒をみてきた。

 

久子さんの終末期、こんな小さな部屋で一人だけで暮らすなんて誰が想像しただろうか。

 

人生は順番だから、多くの人のお世話をしてきた人は、自分の番がきたら多くの人にみてもらうべきだ、と思うのが人情だろう。

 

久子さんは、「ぜんぜん寂しくなんかないよ」と言ってはいるが、きっと若い頃に久子さんにお世話になった親戚の伯父さんや伯母さんがみたら、もっと大きな部屋はないのか?と言うかもしれない。

 

もっと良いところに入れてあげてよ、と言うかもしれない。

 

久子さんが暮らしているあおぞらは、建物はりっぱで頑丈に造られており、90人以上の高齢者が住んでいる賑やかな高齢者専用の集合住宅だ。

 

ただし各自のお部屋は18平米と狭い。

 

この狭さは、若くて健康な方々には、貧しい暮らしのように映るかもしれない。

 

お風呂や台所が付いた、せめて30平米ほどの大きさは必要と思われるかもしれない。

 

私も介護のことを何も知らない時は、狭すぎると思っていた。でもそれは杞憂にすぎなかった。

 

終末期の高齢者にとって台所やお風呂は、一人だけだと危険なところでもある。

 

転倒のリスク、ヤケドや火事のリスク、健康な人と違って甘くみてはいけない。

 

それよりも、共有スペースが広く、お風呂や食堂がたくさんあり、介護専門のスタッフさんがお世話してくれる方が、安全で人との交流する時間が作れて健康的なのである。

 

このようにお部屋は寝室と考えると、18平米も決して狭いとは言えない。

 

高齢者はどうしても自分の部屋にこもりがちになってしまう。人との会話や交流が減ると認知症のリスクも高くなり、認知症の方は症状が進みやすくなるだろう。

 

そうなのだ、あおぞらは意図的に共有スペースを広くし、専有スペースのお部屋は最低限にして、出来る限り賑やかで広い施設空間を作ろうとしたものなのだ。日中は出来る限り共有スペースに出てきてもらい、アクティブに過ごしてもらうことを勧めている。

 

老後の安心した暮らしを考えるとき、高齢者を一括りにして考えると、周りの視点と本人の思いや安全性との間にズレが起こってしまう。

 

高齢者と一括りに考えるのではなく、第二の人生を満喫したいお元気なうちと、体力、気力ともに衰えて見守りが必要な段階では、全く違う生活環境になることを知ってもらいたい。

 

久子さんは今、きっと一人で落ち着いた環境に満足してくれていると、ぼくは信じている。

 

これまで忙しい人生を送ってきたから、終末期は静かに落ち着いた暮らしを望んでいる。

 

認知機能が衰えてしまい、本当のことはわからないが、今の久子さんをしっかりみている長男はそう確信している。

 

まだまだ生きるであろう久子さん。

 

ユーモラスで表情豊かな久子さんのお決まりのセリフ

 

あんたいくつになったの〜?』

 

と聞かれ、

 

「またそのセリフ〜」

 

と心のなかで思う。

 

でも本当は、まだぼくのことを覚えてることが、嬉しかったりする。

 

この先も、そんな笑顔たえない日常を願うばかりだ。

2024.03.25