忘れられない出来事

59話の中で、ぼくが小さい頃のこと、悪さをしても、久子さんに見つからないようにうまくやっていたつもりが、バレて叱られたことがよくあったと書いたが、その中でもぼくの人格形成に一番大きな影響を与えてくれた出来事を書いてみようと思う。

 

 

小学校の一年生か二年生の頃のこと。

 

 

ぼくは久子さんの財布を何気に触っていて中を開けると、小銭がたくさん入っていた。

 

 

その中で百円玉が異様に光って見えた。

 

 

この百円玉を持っていくと、お菓子とかジュースが買える

 

 

と思った瞬間手の指は百円玉を摘んでいた。

 

その指は百円玉を掴んだまま、ぼくのポケットの中へと入ってしまう。

 

 

数秒のできごとだが、欲が勝り、入ってしまったらもう元の場所に戻ることはなかった。

 

 

周りを見てすぐにその場から立ち去った。その後お菓子を買ったかどうかなんて、全く覚えていない。なぜならば、それから2時間ほどして想像もしなかった事態がおこったからだ。

 

 

食事の準備をするため仕事場から家に戻ってきた久子さんに、「ちょっとこっちに座りなさい」と言って玄関にあった椅子に座らされた。

 

 

ぼくは心の中でやましい事をかかえていたので、心臓が飛び出しそうな感覚をあじわっていた。

 

 

でもバレるはずはない!絶対に!とも思いながら、椅子に座った。久子さんは落ち着いた口調で話し始めた。

 

 

「世の中にはやっていいことと、絶対にやっちゃいけないことがあるんだよ。言っている意味がわかる?」

 

 

ぼくの頬はすでにたくさんの涙でぬれていた。

 

そして呼吸ができないほど、喉が痙攣してうまく喋ることはできなかったことは今でもはっきり覚えている。

 

 

ごめんなさい、と言う言葉が言葉にならないほど顔も声もぐちゃぐちゃになっていた。

 

 

久子さんは、「もう二度とやっちゃダメだよ」と言って食事の準備を始めた。

 

 

その後のことは記憶にない。

 

 

世の中にはやっていいことと、やっちゃいけないことがあるんだよ、この言葉は幼少期も青春時代も社会に出てからも、忘れたことはない。

 

 

欲に駆られて何か変な事を考えると、必ずこの時のことを思い出す。そのくらい6歳か7歳のぼくの心に刺さった言葉だ。

 

いつものように

 

 

今日も久子さんはいつものように、

 

 

「あんた久しぶりに見たけど、いくつになった?」

 

 

とお決まりのフレーズをいくつか言いながら、ぼくが買ってきたお菓子をモグモグと食べている。

 

 

ぼくは62年生きてきて今が一番充実した生活を送ることができている。将来の夢があり、それを達成したいという意欲があり、体が健康で、よい家族にめぐまれているからだ。

 

 

それは何より正しく生きてこれたからだとおもう。久子さんの言葉があったからだ。久子さん本当にありがとう。心の中で何回かつぶやいた。久子さんは、食事の時間の30分前にもかかわらず、2つ目のどら焼きに手を出そうとしていたから、ぼくは落ち着いた口調で言った。

 

 

「どら焼きは食べていい時間とダメな時間があるんだよ。言っている意味わかる?」

 

 

「いいのよ、あと何年生きられるかわからないから、食べたいときに食べたいもの食べるんだから」

2023.05.10