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思い出
毎日何度も鏡で自分の姿を見る。
手を洗う習慣がついてから、自分の姿を鏡で見る時間は確実に増えている。
そして思うことは、自分の意識の中にある姿は、何枚か持っている40代の写真の姿で、鏡の中の姿とあまりにもかけ離れてしまっていること。
久子さんが最近よく言うようになった。
『もう80過ぎてしもうて、まだ生きとるわ。』
『友達なんかみんな死んでしもうとるのに、こんなクソバンバいつまで生きとるんや。』
今朝、歯を磨きながら鏡に映った自分の姿を見ていて、久子さんの気持ちが少しだけわかるような気がした。
そして、昔のことを思い出してしまった。
久子さんや家族と一緒に同じ屋根の下で暮らしていたのは、高校3年生までだ。
その後は一人暮らし、そして結婚して新しい家族との生活だから、久子さんと過ごしたのは生まれてから18才になったばかりの3月までの18年間。
記憶にある最初の思い出は、2才になる直前の、北陸地方を襲った昭和38年の豪雪の時のこと。
2階の窓から出入りしていて、足元近くに屋根の一部が見えるがそのほかは雪だらけ、そんな風景だった。
記憶のある2才から数えると久子さんと一緒にくらしていた時間は16年間、5840日、男性の寿命を80才とすれば、ぴったり人生の20%にあたる。
もうすぐ62才になるが、今の歳で計算すると、生きていた時間の26%ほどになる。
寂しかったあの頃
様々な理由で、母親の愛情を受けられない子供たちがいることを考えれば、とても幸せな環境で育ったと感謝している。
ただひとつ残念なことは、久子さんの仕事が忙しかったので(たぶん)子供の世話は祖母にまかせられていたことだった。
祖母にはとてもよくしてもらい、いま自分に孫ができて思うことは、体力的にどれだけ大変だっただろうということ。
そしてさらに、ぼくが泣くと、ひいおばあちゃんがおんぶしてくれて、汽車を見に連れて行ってくれた。
そんな2才のころの風景まで、ぼくの頭の中にあること。
長男は大事に育てられるということを今になって実感している。
ただし、2才のころまで記憶があるにもかかわらず、久子さんの姿は3才の保育所に通っていた頃まで風景には出てこない。
その記憶は、時間になっても母親がなかなか迎えにこなくて、悲しくて泣いている風景だ。
とにかく母親の愛情に飢えていた。
前に一度書いたが、弟ははっきり言った
『うちのお母ちゃんは子育てしていない』
この年になって初めてこの弟の言葉に納得した。
仕事をしながら大家族の食事を作っていたことは間違いないのだが、ぼくの記憶にある幼少期の風景には久子さんの姿がなぜか見当たらない。
おそらく弟も寂しい思いをしていたのだと思う。
久子さんは家から200Mほど離れた場所で、編み物を教えていたから、小学生のころ学校から帰ると編み物教室に遊びに行くことがあった。
10人くらいの生徒さんがいたので、ぼくたちは母の姿を少しだけ見て帰る、そんな子どもだった。
いま田舎に帰っても、これらの風景にあった建物はひとつもなくなったので、違う建物に寄り添って立ってもなんの感情もでてこない。
ただ頭の中の昭和の風景は鮮明で、中学生の頃になると久子さんの顔や声も当時のままの形と音が再現される。
ぼくの久子さんはまだ何年も生きてくれると思うが、昭和の風景にある母の面影はほとんどなくなったので、今の景色を受け入れて、チビバンバの久子さんをかわいがっていこう。
一つ大きな心配は、ぼくがボロボロじじいになってしまい、認知症になってしまったときどうするか?
2023.03.23