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「みんな元気か?」
最近、久子さんと話をしていると『みんな元気か』と頻繁に聞いてくる。
優しい母の問いかけに
『おかげさまでみんな元気にしてるよ』
と答える。
でも、人の名前は出てこない。みんなでひとくくりになっている。妻の名前、子供の名前はもちろん、親戚の人たちになると名前どころか存在すらはっきりしないようだ。
どんどん忘れていくことは仕方がないことだが、やはりしばらく会わないと、さらに拍車をかけて忘れ去られるのだろう。
15年ほど前までは、私の妻や子供はジジ(父)とババ(久子さん)と食事をしたり、旅行に行ったりを楽しみにしていた。
そして年に1度は墓参りをかねて、ふるさと石川県を旅行した。石川県のおじさんやおばさんとの楽しい日々は、私たち家族の一番の思い出だ。
25年ほど前の石川県へ行った。その時の写真が久子さんの部屋に飾られている。そしてその写真をよく見ながら、みんなどうしているかを聞いてくる。
昨年の夏、久子さんを墓参りに連れ出そうと石川県への旅行を計画したが、当日の朝になり久子さんは、「そんな話急に言われても困る」の一点張り、ドタキャンをした。
本人が石川県に行くことはもうないかもしれない、そう思うと普段は超元気なチビバンバ久子さんだが、故郷に住んでいる多くの親戚との楽しい時間を過ごすことは、無くなったと言うことかもしれない。
一生の晩年に認知症を患うことに、あらためて辛い病気を背負わされた人の悲運を感じてしまう。
どの様な因果で認知症になる人とならない人がいるのか。どうしたら認知症の人に人生の楽しみや生きがいを見つけてあげられるのだろうか。
今は元気な久子さんだが、この様なことを考えていると、長男の胸はぎゅーっと締め付けられたように苦しくなる。そんな思いをよそに目の前で久子さんは
『見て見て、こんなに爪の色が奇麗なの、みんながきれいねって言うの』
今の久子さんが大切にしている小さな幸せなのだろう。
無邪気という言葉は子供よりも、認知症の母にぴったりのように思う。
『こんなクソバンバ、まだ生きとるんか!って廊下を歩いている人が言ってたよ、だけどね、まだまだ生きるかもしれないから、どうしたらいいのかね、はっはっはっはっはっは!』
これも最近よく聞くフレーズ。
機嫌がいい時や、ヘルパーさんや看護師さんたちがサービスに入ってくれた時に必ずでるフレーズだ。自分の耳の良さを周りの人にアピールしたいのだ。
体が元気なことを知ってもらいたい、そしてほめてもらいたい、これも久子さんが大切にしている小さな幸せの一つなのだろう。
ぼくの久子さんを執筆をして
ぼくの久子さんを書いていて一番良かったことは、久子さんをよく観察しながら文字に落とし込むことで、生まれて初めて自分の母のことを知ったことだと思う。
文字と文章と絵は、人間にとって、物事をきちんと理解できる最高のツールだと感じた。
ただ表面的に理解するだけではない、表にあらわれていない人の内面まで、表にあらわれていなかった過去の真相まで想像できてしまう。
ぼくの久子さんを書いて、ぼくは本当に多くのことを学んだ。
久子さんが認知症になっていなかったら、きっとこんな経験はできなかった。
アインシュタインが残した
『何かを学ぶためには、自分で体験する以上によい方法はない』
ぼくはこの言葉が大好きだ。
2023.03.01