久子さんの部屋は3階の真ん中あたりの部屋、階段を上がって曲がると、久子さんが前の部屋の住人と話をしている。
友達と仲良く立ち話をしているのか、それとも良からぬ話をしているのか?
残念ながら後者だった。
『テレビで言っていたけどね、ご飯が食べられなくなったんだって、だから朝から全然食べてないのよ、ふらふらよ!あそこの食堂に行ってもね、ご飯出してもらえないよ』
『あら、そうなの?それは困ったわね、どうしたらいいのかしら、いやだわ』
前の部屋の○○さん、久子さんの言うことをすっかり信じて、困った顔をしている。久子さんはすっかり地域の迷惑バンバになっていた。
スタッフから話は聞いていたが、現場を見ることができたのはラッキーだったかもしれない、現行犯逮捕しよう。
『○○さーん、こんにちは!お元気そうですね、ご飯大丈夫ですよ、食事の時間になって食堂に行くと、○○さんの食事がちゃんと用意されているので、心配しないでくださいね』
ぼくは慌ててフォローをした。
『あら、どちら様かしら、ご丁寧に教えていただき助かるわ、よかった、本当にありがとうございます。』
『うちの息子です。』
『こんな立派な息子さんがいるなんて、うらやましいわ、うちの息子と大違いよ』
地域の迷惑バンバの顔はもちろん、にっこりドヤ顔になっていたが、有無を言わさず身柄を確保した。
部屋に入ってから、久子さんに、食事のことは心配しないように話をするが、いつものことで、この癖はおそらく直らないだろう。
そこでぼくは壁に張り紙をする作戦にした。
これまでも、いろんな問題の対応として貼り紙作戦を実行してきたが、ことごとく撤去されている。
おそらく、ぼくがいない間で、久子さんの心の中で、ばかにするな!感情が沸き起こって破り捨てているのではないかと、推察する。それでも今回ばかりは、継続していこうと思う。
なぜなら、他の入居者さんに迷惑をかけることは、久子さんが満足しているこの場所に居られなくなる恐れがあるからだ。食事のことは心配しないでも3食必ず食べられることと、食事の準備ができると呼びに来てくれることを書いて貼った。
『そうなんか、時間になったら呼びに来てくれるの? 神様みたいな扱いやね。』
『そうだよ、久子さんは神様みたいにみんなから大事にされているんだよ』
『そんなら、かたい子にしとらんといかんな』
『そうだよ、かたい子にしていると、特別ないいことがあるんだよ、だからみなさんにありがとうを言ってね』
『うんわかった、かたい子にしとる、かたーい子になるわ』
今日のところはうまくいった、次回来たときにこの貼り紙が生きているか、いなくなっているか楽しみだ。認知症とはなんて意地悪な病気だろう。
こちらが望むことは何度言っても記憶されないが、妄想的に思い込んでいることで、思い込みを消してほしい事は、石に刻まれたごとくその人の心から離れることはない。
正しく知っておいてほしいことは、どんなふうに言えば心に刻まれるのか、その糸口さえ見つけることができない。
ぼくは普段から神様を頼りにしていると思う。もちろん自分で努力をして頑張ったあとの、これ以上は人間の力では限界だ!という段階での、残るは神頼みあるのみ!ということ。なのであまり強くは言えないが、認知症に関して言えば、こんなに神を憎んだことはない。
神様とはなんぞや!
人生の終末期に与えられたこの過酷な運命を、因果応報と言う言葉で語ることは、あまりにも理不尽すぎやしないか。人類がウイルスやガンに対する治療法を開発する勢いは、世界中で目覚ましい成果を上げている。
その勢いと成果に比べると、認知症に対しては残念としか言いようがない。とにかく早く治療薬が開発され、薬を飲むことで治る病気になってほしい。
大資本の企業がこぞって挑んでほしい、神への挑戦を。
2023.01.10