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ついに、この日がやってきた・・
ピンポーン、ピンポーン、何度部屋のチャイムを鳴らしても久子さんは出てこない。
お風呂や売店など、いろんな場所をさがしても見つからない、受付の職員に訪ねると、ほんの少し前にこちらに見えたので、息子さんが来てますよ、と伝えておきましたとのこと。
どうやら入れ違いになったようだ。
久子さんはお出かけ用のカバンを手にして、廊下を歩いていた。
『久子さん、カバン持ってどこかお出かけですか?』
『ごはんをどうしようかと思って、予約しないと食べられないから、どこに行けばいいのか、あなたご存じありませんか?』
何かへんだぞ、ぼくのことを知らない人のように思っているのか?ぼくはマスクを取って顔をよく見せた。
5秒間くらいあいたかもしれない
『あら、なんだか懐かしいお顔だこと』
『私はあなたの息子ですよ』
『そうだったかしら、たしか女の子はいなかったわよね、息子がいたのかしら』
『そうなの?あなたは息子なの?』
いやいやそうは思いたくない、おそらく今日は調子が悪く、頭の中がぼんやりしているだけだろう。甘い物を見せれば、脳の回路が再起動して、正常に動き出すだろう。とりあえず、部屋に入って甘い物を広げた。
予想通り、久子さんの頭はきちんと再起動した。
『美味しいな、美味しいな、このどら焼きは特別なんだから』
『あんたいくつになったの』
一通り写真を見ていろんなことをつぶやく、いつも久子さんのルーティーンが始まった。
どの写真も、その中に写っているぼくのことを、この人誰?と言うのだ。
これまでは、父の葬儀の時の集合写真だけは、真ん中で写っているぼくのことを、『この人誰?』と聞くことはあったが、他の写真についてはきちんと認識できていた。
ぼくの顔の形を見ても、自分の息子だという認識が、薄れ始めているような気がする。
やはり認知症という病気は、少しずつ少しずつ確実に進んでいくようだ。
ぼくの顔を見て、どちら様でしょうか、と言われる日も遠くないだろう。
・・・心配ごと
帰り際、訪問介護の管理者から相談があった。
午後になると、最近よく食事のことを気にして1階に下りてくることが多いので、デイサービスの回数を増やしたほうがよいのでは、との提案だったので、快くお願いをした。
よく話を聞くと、最近久子さんは3人ほど認知症の方々を連れて、1階に下りてくるらしい。仲良くしていればよいのだが、ケンカになることもあるようだ。
ツッパリばあさんになって他の入居者さんに迷惑をかけているのでは、と新たな心配のタネができてしまった。
高齢者施設を運営する側では何が困るか、一番大きな問題は、入居者さんが他の人に迷惑をかけることだ。
久子さんは、サービス付き高齢者向け住宅が合っている、本当によい生活ができている。
だが、あまりにも迷惑行為がひどい場合、他の施設を考えなければならない。
あんた誰?と言われる心配より、ほかの施設を探してもらえますか?の心配が大きくなりそうだ。
2022.12.22