『あんたの髪、また薄くなったね』

 

久子さんの開口一番のフレーズは、最近同じになってきた。

 

施設に入り記帳して3階にあがり、フロアのドアを開錠すると間もなく、久子さんは僕の姿に気が付いてくれる。

 

父以外誰も知らないが、久子さんは白内障の手術をしていたらしく、メガネが無くても近くの文字や遠くの物がよく見えている。

 

久子さんが座っているテーブルまで10mほどあるが、息子が来たことがわかって、手を振っている。

 

有難いことだと思いながら目の前までくると、まずはあいさつ代わりに、髪の毛のことを指摘してくれる。

 

そういえば、久子さんは僕が小学生のころ、髪の毛が細く赤茶色っぽい色をしていたことを気にしていた。

 

そして社会に出てからは、しきりに


『あんたの髪、ずいぶんしっかりしてきたね』

と言っていた。

 

そして認知機能が衰えた今も、自分が生んだ子供の体のことを気にかけてくれている。

 

『僕も高齢者の仲間入りしたから、しかたないよ』

 

『ところであんたいくつになった』

 

久しぶりに聞いたこのフレーズに、少しうれしくなった。

 

『65歳だよ、僕にも介護保険の通知がとどいたよ』

 

『髪の毛薄くなったね』

 

くりかえされると、少しへこむよ、、、

 

『久子さん、息子さんもうそんな歳なの?まだ50代かと思ってましたよ』

 

ありがたいことにヘルパーさんがフォローしてくれたが、久子さんの表情は何も変わらない。

 

『ねえ、ねえ、ちょっと、どうしてこうなったの?どうすればいいの?』

 

突然、久子さんが難しい顔をして、何かを聞いてきた、でも何のことかさっぱりわからない。

 

『何してるの、大丈夫なの?ねえ、ねえったら』

 

『久子さん、どうしたの?何か困ったことがあるのかな?何のことを言っているのか教えて』

 

『なんのことかと聞かれても、すぐには答えられない、神様じゃあるまいし』

 

『そうだね、わかったよ、ゆっくり考えてみて』

 

おそらく今、久子さんの頭の中では、何か大事なことが動いていて、少し困ったことになっているのだろう。

 

世話好きでまじめな久子さんは、きっと何とかしたいと思っているが、どうしてよいかわからず、もどかしい気持ちになっているのだろう。

 

『大丈夫、心配しないで、僕がきちんとやっておくから、久子さんは何も心配しないでいいよ』

 

『そうなの、お願いね』

 

うまくいった!さすがは長男、介護のプロ!

 

『ねえ、ねえ、ちょっと、どこへ行ったらいいの?』

 

5秒もたたないうちに、目の前にいる僕ではなく、少し離れた所にいるヘルパーさんの手を振り出した。

 

今の久子さんの頭の中は、『こいつに聞いてもダメだ!』なのかもしれない。

 

『久子さん、おトイレ行きましょうか』

 

ヘルパーさんの声に久子さんはおとなしく従い、僕には目も触れずトイレに向かった。

 

僕は久子さんの気持ちを、わかっているつもりでいたが、おそらく三分の一もわかっていないのかもしれない。

 

トイレから戻ってきた久子さんは、僕を見つけると手を振り叫んだ。

 

『髪の毛薄くなったね』