「ちゃんと歩けるでしょ?」

 

それは、1月の寒い日のことだった。

 

曇り空で少し北風がふくある日の午後、ぼくは久子さんを訪ねた。

 

埼玉県狭山市の北風は微風とはいえ、首や耳や手を容赦なく冷やしてくれる。頼みのお日様は顔を出しそうにない天気だった。

 

歩きながら、「今日はやめておけばよかったかなぁ」と何度か心の中でつぶやき、けど「こんな日はきっと何か良いことがあるだろうと」自分を励まし久子さんのいる、あおぞらへとむかった。

廊下は全て建物内にある。あおぞらに入ると暖かい、ほっとしながら久子さんの部屋のチャイムを鳴らした。

 

『あら~なんとめずらしい人が来たこと、何年ぶりかしら、さあ入って入って』

『みなさん元気?ところであんたいくつになったの』

 

これは久子さんの体調の良い日の、出迎えパターンである。

 

いつもは『ハイハイ60歳だよ、覚えておいてね』と言うのだけど、今日は、会うたび久子さんが突然作り出す、TVドラマのようなおかしな話に対抗して、ぼくも負けじと感動小説をぶつけてみた。

 

『そうだね、10年ぶりに母に会えてぼくはうれしいよ、先週成人式にでたばかりで、ぼくは弱冠二十歳のおとなになりました。小学生のころ、ぼくは母に捨てられ、それから母に会いたくて会いたくて、やっと会えました、感動の再会です』

 

久子さんの反応を見た。

 

『見て見て、ちゃんと歩けているでしょ?こんなに元気になったの!昨日まで寝たきりで何日も食べてなかったけど、こんなに元気よ』

・・・負けた。

 

久子さんは自分でいろんな話を作るだけでなく、自分に都合が悪い話も瞬時に別の話に切り替えることができる能力も身につけていたのだ。

 

「どこにもない?!」

『今日は外寒いよ、風邪ひかないように暖かくしててね』

 

と言いながら部屋の中に入ると、寒くはないが暖かくもない。

 

『暖房いれておいたほうがいいよ、少し暖房入れようか、リモコンはどこ?』

 

・・・!!!

 

『ない、ない、リモコンがない!』

『リモコンどこに置いたかな? 久子さん、探してくれる?』

 

以前住んでいたマンションと違って狭い部屋だからすぐ見つかると思っていたが、なかなか見つからない、本当に見つからない。

 

コンタクトレンズを落として長時間探した経験はあるが、長さ15センチはあるリモコンが見つからない。

 

かばんの中、枕や布団の下、ベッドの下、冷蔵庫の中、トイレの便器の中、机の引き出し、ありとあらゆるところを探して、ようやく見つけた、洋服を入れた引き出しの下の方だった。

 

『よかったね、見つかって、でもなんでこんなところに入れたの?』

 

『私がそんなところ入れるわけがないでしょ!だれか知らない人が隠したんでしょ!』

ここで反発しても、よいことは何もない、落ち着いて落ち着いて・・・


『なくさないように気を付けてね』

 

しまった・・・。

最近になって知ったことだが、世の中にはキーファインダーという、とても便利な物が売っている。

 

財布やキー、リモコン、飼っているペットまで、よく失くすものに、カード型やホルダー型の小さな子機を付けておき、失くした時親機のボタンを押すと光と音で知らせてくれる物だ。スマホから操作できて、スマホを失くした時は子機から逆に操作してスマホが反応するもの等があり、どれも とても便利そう、ネット通販のレビューを見ても、本当に役立っていることがわかる。

 

認知症の人だけでなく、いろんな人が使っているようだ。

 

もっと早く知っていれば・・・

 

そうだ、何かひとつ買って、久子さん用に使ってみよう!

 

失くして困るものといえば、まずは入れ歯用だな。

 

えーっと、入れ歯につけるには・・・!!?

 

しまった・・

 

「どなたか、入れ歯用をお持ちの方、付け方教えてくださ〜い(涙)。」

2022.08.30

カテゴリー:ぼくの久子さん