手術後のこと

久子さんは目がいい、メガネがなくても大丈夫。

 

10年ほど前に白内障の手術を受けている、受けていたらしい。ぼくはその事実を本人から聞いているだけなので、真実はわからないが、85歳にしては本当になんでもよく見えているから、そうなのだろう。

 

そして、久子さんは目だけでなく耳と胃腸も丈夫、だから「絶対に長生きするなぁ」と思いながら、耳が悪くても補聴器がある、目が悪くてもメガネがある、なのに頭だけは、、、、

とても残念だ。

 

そして、口癖のように目のことを話す。

 

『やっと目が見えるようになったわ』

 

『どうしたの?いつもよく見えるって言ってたよ』

 

『去年、目の手術をしたでしょ、だから目が開かなかったの、でもね、今日ようやく見えるようになったの、本当にうれしいわ』

 

久子さんにとって目の手術は、頭の中に1年前のこととして刷り込まれている。おそらく、目が見えなかった麗しき女性が、目の手術を受け包帯をまかれてベッドの上にいる、そして包帯がとれた日、周りの景色が徐々に見えてくる感動のドラマのシーンが頭にやきついているのだろう!

 

この展開には、さすがのぼくでも慣れているので今では『よかったね』とスルーしている。幸せそうに喜んでいるのだから、わざわざ怒らせることを言ってはいけない、ぼくも成長したものだ。

 

しか~し、この展開をスルーできるようになるまでには、とんでもなく大きなバトルが繰り返され、お互い嫌な思いをしながら、長い年月と大きなお金を費やしてきたのだ。思い出しただけでもイライラするが、やはりここにきちんと記しておこう。

 

ぼくが久子さんの話をスルーできるワケ

 

あれは父が亡くなってしばらくしてから起こり、2年半ほど前までの約3年間のバトルと、久子さんの目がいつもウサギの目になっていた、ぼくと久子さんの黒歴史である。6年ほど前のある日のこと、久しぶりに久子さんを訪ねると、なんとなく目が赤いような気がする。

 

『目が赤いようだけど大丈夫?』

 

『うん大丈夫よ、目の手術をしてからは目がすごくよく見えるようになったんだけど、まだ目ヤニがでるので目薬つけるようにしてるの』

 

『そうなんだ、目の手術を受けたんだ、知らなかった、でも目がよく見えるのはよかったね』

 

それから1週間後、久子さんの目はさらに目が赤くなっていた。

 

『大丈夫?目医者さんに診てもらおうか?』

 

『目薬あるから大丈夫、ちゃんとつけているから』

 

目薬をみると、花粉症で目がかゆい時に使う2000円近い値段の高い目薬を使っている。

 

『この目薬の用途はちょっと違うから、今度ぼくが買ってくるよ』

 

『大丈夫よ、先生にもらって一番高い目薬を買っているんだから』

 

どこの先生だか知らないが、薬剤師のぼくよりそちらの先生の言うことを信じるなんて!まぁいいや、そのうち治るだろう…。久子さんは言い出したら聞かない。少しプライドを傷つけられたぼくは、その日はそれ以上何も言わないで早めに帰ることにした。

 

認知症の怖さ

それから約3年間、ぼくはどうしようもない問題を心に抱えるようになった。黒歴史が始まった。

さらに2~3週間ほどたってから久子さんを訪ねた。

 

なんと久子さんの目は白い部分がすべて真っ赤になり、見るからにかわいそうな目をしている、そして机のまわりには、あの高価な目薬が、10本ほど散乱しているのだ。

ドラッグストアの目薬コーナーを見てもらえればよくわかるが、目薬は本当にたくさんの種類があり、安いものは100円台から高いものは2000円近いものまで、種類も価格も様々だ。その中でも一番高いと思われる目薬をこんなにたくさん、どこの先生だか知らないが、買いすぎを注意してほしい…が、おそらく久子さんは言うことを聞かないだろう。

 

『ねぇ、どうしたの?こんなにたくさん目薬買って!それに久子さんの目が真っ赤だよ、目が大変なことになってるよ!』

こんな母の姿を見て、ぼくの気持ちは揺れた。真っ赤な目に「可哀そう!」という気持ちが半分、「なんてバカなんだろう!」という気持ちが半分、ぼくは久子さんにどのように話をして説得すればよいのか…。やりきれない思いで、涙がでそうだった。

 

そして、一人暮らしの高齢者がとてもかわいそうなことになっているので、息子のぼくが何とかしてあげたい、の一心だった。

 

当時はすでに、認知症の初期症状があることは感じていたが、まさか自分の体で、目に見える異常さまでもコントロールできないなんて..しかも薬の専門家が身内にいっぱいいる。亡くなった父、ぼく、ぼくの妻、弟、弟の妻、すべて薬剤師だ。久子さんを入れた家族6人中の5人が薬剤師の家なのだ。

 

それなのに、こんな事になるなんて…。現場を目撃してはいないが、状況証拠から明らかに間違った目薬を使いすぎたことが原因の目の炎症だった。しかも一番高価な目薬が原因だ。

 

ぼくは、このとき初めて【認知症の怖さ】というものを実感した瞬間だった。

2022.08.02

カテゴリー:ぼくの久子さん