良いことも、悪いことも考え方次第。

自分の親を施設に入れることに、罪の意識をもってしまう家族は少なくない。昭和の時代までは、一家の跡取りである長男が、その奥さんが、自宅で両親をみることは当然のことだっただろう。

 

だから30年以上前は老人ホームが少なく、そこで生活している人も、入居していることは他人に知られたくない雰囲気があったようだ。

 

現代では、電車の中刷りや新聞折り込み、TVコマーシャルと、老人ホームの宣伝はいたるところで見かける。公的な介護保険制度が整備され、女性が何歳になっても働く時代、親の介護は介護保険サービスを使うことが当たり前の時代である。それでも自分の親を施設に入れることに、大きな抵抗感を感じるのは、親子関係の絆の太さからくるものだろう。

 

または、親子間のパワーバランスが極端に親側に偏り、本人がかたくなに施設に入ろうとしない場合もあるだろう。ぼくも長男として、父がなくなったあと一人で暮らしていた久子さんを、きちんと見てあげたい、でもどうすることで久子さんの残り短くなった人生を幸せにしてあげられるのか、何年も考え悩んでいた。

なかなか結論が出せないまま、結局、久子さんがボヤ騒ぎを起こしたことで、ようやく施設に入れることになったのである。久子さんはひとりで生活することが、かなり困難になっていたにもかかわらず、住んでいるマンションから離れようとはしなかった。

 

『そんな老人ばかりが入っている施設に入ると、入った日からボケが始まるから、絶対にそんなところ入らんわ』

 

『でもね、一人でいると危険なことも多いし、何かあったとき誰も知らないまま死んでいたという事故もニュースでよく見るから、家族は不安だよ』

 

『もういつ死んでもいいわよ』

 

『小田急線に飛び込んで死ぬ』

 

『そんな事になったら、残された家族は大変だよ』

 

ぼくと久子さんはこんなやりとりを数年繰り返していた。

 

自分の事だけでなく、元気に家事ができるような高齢者であれば、家族も一緒に長く、楽しく暮らすことができるだろう。しかし、認知症が進み始めたら家族との同居はやめた方が安全だ。安全という表現に違和感がある、と思われるかもしれない。虐待の定義は難しいが、暴言をはいたり、大きな声で相手を抑えようとしたり、手を強く握って引っぱったり、除々にエスカレートして虐待につながることが多い。

 

また、介護している人が暴力を受けることも多い。施設と違い、家族の関係で、密室で起こることなので、さらに危険だと思う。おそらく、認知症介護に疲れて、何度も親の首を両手でつかみ締めようとした人は、少なくないだろう。少しでも認知症の疑いが見えたら、安心安全という視点で、施設入居の判断を早めるべきだと思う。

 

さて、施設になんとか入ってくれた久子さん、 これまで大家族で暮らしてきた時間が長かったので、ぼくは何度も

 

『一人になって住んでいる場所も変わって、さみしくない?』

 

と聞いてみた。

 

『大丈夫よ、さみしいことなんかぜんぜん無いわ』

『それに夜もよくねむれるし、どこも悪いとこない』

『熱なんて出たことない、咳も鼻水も出ない、出てくるのはご飯食べた後のおならくらいだわ』

『80過ぎたこんなばあさん、いつ死んでもおかしくないわよ!』

『みんな元気か?ところであんたいくつになった?』

 

最近の久子さんは、元気さをアピールしたがっている。

 

久子さんが暮らしている場所は、家族から離れた場所なので、「遠くに追いやってしまった」という罪悪感は意外に大きく感じている。今まで住んでいたところはたくさんの思い出があり、家族みんな切ない気持ちにはなったが、久子さんには危険がいっぱいの部屋だったので、選択は間違っていない。

 

久子さんも、住み慣れたこと、そして何より、近くに声をかけてくれる優しいスタッフが大勢いてくれることは、最高の環境だと言える。どんなにお元気な高齢者でも一人暮らしや、高齢者だけの世帯は危険がいっぱい。毎日のように火事で高齢者がなくなるニュースと、高齢者が運転する車の事故のニュースが絶えない。

何かあってからでは遅い、高齢者だけの生活環境、それは命の危険と他人への迷惑が、隣り合わせであることを認識したほうがよい。

2022.06.16

カテゴリー:ぼくの久子さん